| 【真言宗について】 |
| 804年、留学僧として遣唐使船で入唐した空海は、唐の都・長安で、当時の中国密教の第一人者、青竜寺の恵果(746-805)について金・胎両部の密教を授けられ、806年に帰国した。帰国した空海は、まず、自ら持ち帰った経典類を「請来目録(しょうらいもくろく)」としてまとめ、朝廷に献上。その内容は、216部461巻の密教経典を中心に、仏具9種、仏画曼荼羅など10舗、その他13種で、密教経典類は新しく日本に伝えられたものばかりであった。
s 密教のよりどころとする経典は、「大日経」と「金剛頂経」であるが、空海は、理論面と実践面を統合して教理を立て、密教を宗派として成立させ”真言宗”を開創。最澄が天台宗に伝えた密教を「台密」と呼ぶのに対し、空海のそれは「東密」と呼ばれる。
のち、809年に京都の高尾山寺(神護寺)に住して”真言密教”の法燈を掲げ、816年に高野山を賜わり、金剛峯寺を開創、823年に賜わった教王護国寺(東寺)と合わせて密教の根本道場をした。
そして、インドや中国にはみられなかった密教の組織的、論理的展開を果たし、宗派として大成させたのである。 |
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| 【弘法大使について】 |
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弘法大師「空海」は宝亀5年(774)に、現在の香川県善通寺に降誕されました。幼い頃より聡明で18才で京の大学に入学され、中国の諸学問を学ばれますが、ご自分を満足するに足らないと、仏教にその教えを見出されて退学をされます。その修行の中で今までの仏教ではない密教に出会われた空海は、自分の求めている物を直感され、唐(中国)に学ばれる決意をされ、31才の時(804年)留学僧として入唐されます。長安の恵果和上に秘法を授けられ、多くの経典や曼荼羅・仏具などと共に806年に帰朝されます。36才の時真言密教の法灯を掲げられ、これより嵯峨天皇の外護のもと真言宗の教えを弘めてまいられます。以後、多くの著書を著わし、真言密教の教義を弘めるとともに、衆生済度の考えの下、四国は満濃の池の修復や綜芸種智院の開学などを行い、常に民衆の中に自分を置かれ、人々を救われました。ご存知の「いろはうた」も弘法大師の作とされています。承和2年(835)62才で高野山に入定されるまでの間、即身成仏と社会教化を宗旨として、教育・文化・社会事業と幅広い活動をされましたが、その根底に有ったのは、私たち一人一人への慈悲の心でありました。現在でも「南無大師遍照金剛」と高野山へお参りが絶えないのも、お四国遍路が続いているのもこうした空海の活動と考え方が有ったからです。延喜21年(921)弘法大師の諡号を賜っています。 |
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| 【仁和寺について】 |
仁和寺(にんなじ)は仁和4年(888)、宇多天皇によって創建されました。宇多天皇は御退位の後に出家され、30余年の間仁和寺で真言密教の修行に励まれました。以来、明治維新まで30代、約1000年にわたり皇子皇孫が仁和寺の門跡(住職)に就任され、仁和寺は「旧御室御所」として親しまれてきました。仁和寺の広大な境内は御室御所跡として史跡に指定され、伽藍の建造物は、その多くが国宝や重要文化財に指定されています。
このように千年以上の歴史と、多くの文化財を所有する仁和寺は、平成6年(1994)ユネスコの世界文化遺産に登録されました。 仁和寺には境内の諸建造物以外にも多くの文化財を伝えていますが、それらは毎年春秋の両期に境内の霊宝館で一般に公開されています。 また、境内の一角に植えられている「御室桜」は古来より、京洛の春の最後を飾る花として多くの人々に親しまれてきました。
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